幅広いファンから人気を博した日本を代表する小説家
写真:公益財団法人吉川英治国民文化振興会 提供
吉川英治(よしかわ えいじ)は、『宮本武蔵』や『三国志』、『新・平家物語』、『私本太平記』など歴史をテーマにした大衆小説を執筆し、戦前戦後を通して幅広いファンから人気を博した日本を代表する小説家です。
1892年(明治25年)に現在の横浜市に生まれた英治は、10代のころから文学を志すようになりました。1922年(大正11年)に東京毎夕新聞社に入社したのをきっかけに、次第に文才を認められるようになり、新聞連載小説をはじめ多くの作品を世に生み出しました。1925年(大正14年)に雑誌「キング」連載の『剣難女難』で、はじめて「吉川英治」のペンネームを使用しました。その後、『鳴門秘帖』、『神州天馬侠』、『宮本武蔵』など次々と作品を発表し、国民的作家になっていったことはご存じのとおりです。
吉川英治の作風は、史実にもとづいた話の中で、個性的で魅力的なキャラクターが活躍する点にあります。それはたくみな人物描写によってもたらされているのですが、単なる歴史上の人物という表現にとどまらず、確かな肉体を持った存在感のあるキャラクターとして、まるで目の前にいるかのように身近に感じることができ、それが吉川作品の魅力の一つとなっています。
シンプルな文章で数々の人間ドラマを描き、読みごたえがあるのに、読み始めたら止まらないストーリーの面白さで、読者を最後のページまで魅了し続けます。
この青梅の家には、吉川英治のエッセンスが凝縮されています。ぜひこの青梅市吉川英治記念館で人間・吉川英治を感じていただければと思います。
略年表
1892年(明治25年) | 神奈川県久良岐郡中村根岸(現横浜市中区)に生まれる。 |
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1903年(明治36年) | 家運傾き小学校を中退。奉公に出る。 |
1909年(明治42年) | 横浜ドック船具工となる。 |
1910年(明治43年) | 上京。菊川町(現墨田区菊川)のラセン釘工場の工員となる。 |
1911年(明治44年) | 蒔絵師、塚原盛久の家に住み込み徒弟となる。川柳家吉川雉子郎の誕生。 |
1912年(大正元年) | 川柳の世界に入り、吉川雉子郎(きじろう)の筆名で小説を発表。 |
1914年(大正3年) | 「文芸の三越」の川柳部門で応募作が一等当選。「講談倶楽部」に投稿した小説『江の島物語』が一等当選。 |
1920年(大正9年) | 秋、大連に渡る。 |
1921年(大正10年) | 母急病の報により帰国するが6月母死去。旅先から応募していた講談社の懸賞小説に三篇入選。東京毎夕新聞社に入社。 |
1922年(大正11年) | 東京毎夕新聞に「親鸞記」を社命にて執筆。 |
1923年(大正12年) | 関東大震災遭遇後、文学に専心する意思を固める。 |
1924年(大正13年) | 赤沢やすと結婚。講談社の諸雑誌に複数の筆名で小説を発表。 |
1925年(大正14年) | 1月、新創刊の「キング」に『剣難女難』を連載。初めて“吉川英治”の筆名を使用。5月、「少年倶楽部」に『神州天馬侠』を発表。 |
1926年(大正15年) | 『鳴門秘帖』を「大阪毎日新聞」に連載。三社競作で映画化するほどの人気を呼ぶ。 |
1930年(昭和5年) | 様々な悩みから家出し、温泉地を転々とし書斎とする。 |
1935年(昭和10年) | 『宮本武蔵』の連載を東西の「朝日新聞」で開始。 |
1937年(昭和12年) | 日中事変が起こり、毎日新聞特派員として戦線視察。やすと離婚。 9月、池戸文子と再婚。 |
1938年(昭和13年) | ペンの部隊として南京、漢口方面に従軍。 |
1939年(昭和14年) | 1月、『太閤記』を「読売新聞」に、8月、『三国志』を「中外商業新報」他地方紙に連載。 |
1944年(昭和19年) | 3月、西多摩郡吉野村柚木(現青梅市柚木町)に移住。 |
1945年(昭和20年) | 8月15日終戦。この日から二年間にわたり筆を断つ。 |
1947年(昭和22年) | 4月、短編『人間山水図巻』を「東京」へ発表し執筆活動再開。 |
1949年(昭和24年) | 吉野村公民館の建設に協力する。 |
1950年(昭和25年) | 4月、『新・平家物語』を「週刊朝日」に連載開始。 |
1953年(昭和28年) | 3月、『新・平家物語』で第1回菊池寛賞受賞。8月、吉野村から品川区北品川に移る。 |
1958年(昭和33年) | 1月、『私本太平記』を「毎日新聞」に、『新・水滸伝』を「日本」に連載開始。 |
1960年(昭和35年) | 11月、文化勲章受章。 |
1961年(昭和36年) | 10月、健康が悪化「新・水滸伝」を中断し、入院。 |
1962年(昭和37年) | 1月、『私本太平記』で毎日芸術大賞を受賞。この賞金を基金に吉川英治賞を創設。(歿後財団法人吉川英治公民文化振興会が組織され、改めて吉川英治賞が制定される。)9月7日逝去(享年70歳)。都立多磨霊園に眠る。 青梅市が名誉市民の称号を贈る。 |
1977年(昭和52年) | 3月、吉川英治記念館が青梅市柚木町の旧宅敷地内に開館。 |
2019年(平成31年) | 3月、閉館。令和元年12月、青梅市に寄付されることが決定。 |
2020年(令和2年) | 4月、振興会から青梅市に寄付。9月再オープン。 |
2023年(令和5年) | 2月、主屋などが国の登録有形文化財(建造物)に登録。 |